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記念旅行

阿久 悠(あく ゆう、1937年(昭和12年)2月7日 - 2007年(平成19年)8月1日)は、日本の 詩人、作詞家、小説家。兵庫県淡路島(津名郡鮎原村=現在の洲本市五色町鮎原)出身。第2回横溝正史ミステリ大賞、第45回菊池寛賞受賞。紫綬褒章、旭日小綬章受章。 目次 [非表示] 1 来歴・人物 沖縄旅行 2 主な記録 2.1 シングル売上枚数 2.2 日本レコード大賞 2.3 日本レコード大賞・作詩賞 2.4 日本作詩大賞 2.5 チャート1位独占 2.6 チャート独占 3 エピソード 4 作詞した提供楽曲 4.1 歌謡曲(歌手別) 4.1.1 あ行 不用品回収、粗大ゴミ、粗大ごみ 4.1.2 か行 4.1.3 さ行 4.1.4 た行 4.1.5 な行 4.1.6 は行 4.1.7 ま行 4.1.8 や・わ行 4.2 童謡・特撮・アニメ 4.3 スポーツ関係 4.4 学校関係 4.5 合唱曲 札幌 ビジネスホテル 5 トリビュートアルバム 6 著書 7 関連項目 8 演じた俳優 9 註 10 出演 11 外部リンク [編集] 来歴・人物 本名は、深田公之(ふかだ ひろゆき)。阿久悠のペンネームの由来は「悪友」から。また、多夢星人という、別のペンネームも持っていた(由来は、自分の書いた小説に出てくる人物から)。 幼少期は兵庫県警巡査であった父親(宮崎県児湯郡川南町出身)の仕事の都合で、いずれも津名郡内であるが、数年おきに転居を繰り返す。兵庫県立洲本高等学校卒業、明治大学文学部卒業。 高速バス、夜行バス 広告代理店・宣弘社でCM制作を手がけながら、1964年(昭和39年)から放送作家としても活動。1966年(昭和41年)に宣弘社を退職し、放送作家、作詞家としての活動を本格化させる。音楽番組の台本を書いているとき、歌われる歌の歌詞を写しながら、作詞の勉強をした。また番組の企画書を書かせたら日本一とも言われたほどである。歌詞の処女作はザ・スパイダースのグループ・サウンズデビュー曲「フリフリ」のB面である「モンキーダンス」。本格デビューはザ・モップスの「朝まで待てない」。このタイトルの由来は、曲の締め切りが朝に迫っていたからだという[1]。オフィス・トゥー・ワンに所属。 その後、作詞家として数々のヒット曲を送り出す。生涯、作詞した曲は5,000曲以上。ジャンルは演歌、アイドル歌謡曲、フォークソング、コミックソング、アニメソング、CMソングと幅広い。日本テレビのオーディション番組 『スター誕生!』に番組企画・審査員としてかかわる。『スター誕生!』の特徴的な企画は各芸能プロダクションの担当者が目に付いた出場者に札を挙げるというものであったが、あのスタイルを考えたのは阿久自身である。「密室でタレントを選考する過程を全てガラス張りにして芸能界を裸にしよう」と提案した。1977年(昭和52年)、子供の歌を作りたいと「ぱくぱくポケット」というシリーズを手がけ、『おはよう!こどもショー』のコーナーでも歌われていた。横浜マンション 「感動する話は長い、短いではない。3分の歌も2時間の映画も感動の密度は同じである 」との言葉を遺す。 しかしながら1980年代に入りニューミュージックのアーテストが台頭し 彼等のつずった叙情よりも感性や実体験の詞が受けるようになると阿久の売り上げも 苦戦を強いられるようになり、以降は小説執筆や演歌の作詞などに比重を移した。 債務整理 直木賞候補となり映画化もされた『瀬戸内少年野球団』など小説も手がけ、1982年(昭和57年)には『殺人狂時代ユリエ』で第2回横溝正史ミステリ大賞を受賞。1997年に刊行された短編小説集『恋文』、長編小説『ラヂオ』はその後ラジオドラマ化され、特に『ラヂオ』(NHK-FM)は第38回ギャラクシー賞ラジオ部門優秀賞を受賞する。1997年(平成9年)、30年間にわたる作詞活動に対して、日本文芸振興会主催による第45回菊池寛賞を受賞。さらに1999年(平成11年)春、紫綬褒章を受章。2000年(平成12年)10月、掌編小説集『詩小説』にて第7回島清恋愛文学賞を受賞。 結婚式演出、結婚式サプライズ 2001年(平成13年)に腎臓癌を患い、同年9月12日に癌の摘出手術を受けた。それ以後は癌治療を受けつつ、病身を押して活動を続けていたが、2007年(平成19年)8月1日午前5時29分、尿管癌のため東京都港区西新橋の東京慈恵会医科大学附属病院で死去。享年71(満70歳没)。戒名は「天翔院詞聖悠久居士」。同年3月に行われた石川さゆりの「デビュー35周年 感謝の宴」に出席したのが最後の公の場となった。 生前最後のテレビ出演は、7月28日深夜に放送されたNHK総合テレビの番組『通〜歌謡曲〜』の解説であった。埼玉 一戸建て 阿久の死去から2日後の2007年8月3日、NHK総合テレビの『プレミアム10』は急遽、放送予定を変更して、追悼特別番組『ありがとう阿久悠さん〜日本一のヒットメーカーが生んだ名曲たち〜』を堀尾正明アナウンサーの司会で放送した。この中で、かつて放送された『阿久悠の世界 - ヒット曲大全集』(1993年)での阿久のコメントが紹介されていた。 本当に不機嫌ですもんね皆。あの、条件が整って、生活の条件が整えば整うほど人間というのはどっか不機嫌になっていく不思議さですね。で、歌が一番大事なのは、こんな不幸な目にあって悲しいっていうことではなくって、不幸のちょっと手前のね、切ない部分がどう書けるかということが、僕は一番大切なことだと思ってるんですよ。 日本政府は、阿久の多年に亘る歌謡界への功績を高く評価し、死去した2007年8月1日に遡って旭日小綬章を授与することを9月7日の閣議で決定した。 また、第49回日本レコード大賞では特別功労賞、第45回ゴールデン・アロー賞では芸能功労賞が贈られた。 [編集] 主な記録 [編集] シングル売上枚数 これまでに発売されたシングルの総売上枚数は6,818万枚で作詞家歴代1位。2位以下に大差をつけている。[2] 1位 - 6,818万枚 阿久悠 2位 - 4,946万枚 松本隆 3位 - 4,216万枚 小室哲哉 (オリコン。2007年8月6日付現在) また、阿久悠が作詞した曲のシングル売り上げ枚数上位は、1位「UFO」、2位「サウスポー」、3位「北の宿から」である。 [編集] 日本レコード大賞 日本レコード大賞での大賞受賞曲は作詞家として最多の5曲(1976〜1978は3年連続受賞)。 1971年「また逢う日まで」尾崎紀世彦 1976年「北の宿から」都はるみ 1977年「勝手にしやがれ」沢田研二 1978年「UFO」ピンク・レディー 1980年「雨の慕情」八代亜紀 (2007年現在) [編集] 日本レコード大賞・作詩賞 日本レコード大賞の作詩賞受賞は7回で最多記録(2007年現在)。 1973年「ジョニィへの伝言」ペドロ&カプリシャス。 「じんじんさせて」山本リンダ 1975年「乳母車」菅原洋一 1985年「夏ざかりほの字組」Toshi & Naoko(田原俊彦・研ナオコ) 1986年「熱き心に」小林旭 1990年「花束(ブーケ)」八代亜紀 1994年「花のように鳥のように」桂銀淑 1996年「螢の提灯」坂本冬美 日本作詩大賞 日本作詩大賞は8回受賞。日本レコード大賞作詩賞と同じく、最多記録となっている(2007年現在)。 1974年「さらば友よ」森進一 1976年「北の宿から」都はるみ 1977年「勝手にしやがれ」沢田研二 1981年「もしもピアノが弾けたなら」西田敏行 1982年「契り」五木ひろし 1984年「北の螢」森進一 1988年「港の五番町」五木ひろし 2002年「傘ん中」五木ひろし [編集] チャート1位独占 1977年6月20日付のオリコンシングルチャートで、阿久悠作詞の「勝手にしやがれ」(歌・沢田研二)が首位を獲得する。それ以降、12月5日付首位の「ウォンテッド」(歌・ピンク・レディー)まで、25週連続で阿久悠作品が首位を獲得。ほぼ半年にわたり首位を取り続けるという前人未到の記録を打ち立てた。 またこの年は他に、「北の宿から」(歌・都はるみ)、「青春時代」(歌・森田公一とトップギャラン)なども首位を獲得。阿久悠作品は年間39週(約9ヶ月)首位を獲得した。 [編集] チャート独占 1977年12月5日付けのオリコンシングルチャートでは、阿久悠作詞の楽曲が100位までに16曲チャートインした。 1位 - ピンク・レディー『ウォンテッド (指名手配)』 4位 - 沢田研二『憎みきれないろくでなし』 9位 - 岩崎宏美『思秋期』 12位 - Char『気絶するほど悩ましい』 16位 - 石川さゆり『暖流』 19位 - 石川さゆり『津軽海峡・冬景色』 23位 - 森進一『東京物語』 26位 - 沢田研二『勝手にしやがれ』 33位 - 新井満『ワインカラーのときめき』 39位 - ピンク・レディー『渚のシンドバッド』 42位 - ささきいさお『宇宙戦艦ヤマト』(アニメソング) 45位 - 西城秀樹『ボタンを外せ』 48位 - 石川さゆり『能登半島』 69位 - ギャル『薔薇とピストル』 70位 - 森田公一とトップギャラン『過ぎてしまえば』 95位 - 清水由貴子『ほたる坂』





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